能を代表する能装束。観客はその見た目の美しさはもちろん、シルエットの大きさにも目が行くのではないだろうか。何枚も重ねて着込む能の装束は、基本的には数名の能楽師が協力して着付ける。その際、舞台上での動きに耐え、また形を美しく見せるため装束の要所要所は糸で止めて固定される。さらに、鬘を結って形を整えるのもこの時で、これらの作業はすべて能楽師が自ら行うため、大事な修業のひとつでもある。こういった作業に欠かせないのが〈針だとう〉だ(※糸針、針山等の呼び名もある)。
〈針だとう〉とは、糸と針、鋏、鬘をとく櫛といった装束を着ける時に必要なものをまとめた道具袋のこと。和服や結髪の道具などをしまう「たとう紙(畳紙)」からきている。取材にご協力いただいた谷本さんの〈針だとう〉は三つ折りで、広げると真ん中に針山、左右には小物を入れられるポケットがついている。それぞれの家にはそれぞれの針だとうがあり、長年使い込まれてボロボロになっているものも多い。
針山/糸は予め縒って強度を出し、色ごとにまとめてある。針は使う人によって様々で、谷本さんは長めの布団針を使用。ちなみに、針山の中には、針のサビ防止と油補給の為に人毛が入っている。
糸各種/我々が普段使う糸にくらべ太く丈夫な特殊な絹糸を使用。色は白・赤・紺・萌黄・浅黄・紫など各種ある。
つげ櫛/鬘を結う時に使用する。左の目の細かい櫛は、本鬘(人毛を使用したもの)用、真ん中のものは馬尾鬘(馬の尾を使用したもの)用で、右の目の荒い大きなものは黒頭・赤頭・白頭の時に使う。櫛は基本的に木製(つげが多い)。
握り鋏/糸を切る際に使う。
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「針だとうは、装束などの端切れを使って作られていることが多いので、色々なお家の針だとうを拝見するのが楽しいです。」(谷本さん談)。
ちなみに、ページトップの谷本さんのものは近年装束屋にて購入したもので、中にある針や握り鋏にもこだわりがあるそう。また、糸を縒るのも能楽師の仕事のひとつ。必要になる糸を夜な夜な(?)自宅で縒るそうだ。装束の着付け同様、この糸縒りにも上手下手がある。
また、装束を舞台上で変える場面で、「パチッ、パチッ」という音を聞いたことはないだろうか。これは、後見が装束を留めている糸を切る際に握り鋏が出す音で(逆に舞台上で装束を糸で固定する場合もある)、そういう場合に備えて後見は懐にいつも糸針と鋏を忍ばせている。ただ、〈針だとう〉は大きく携帯には不向きのため、舞台に出る際は下の写真のような折った半紙に必要な糸針を刺し、握り鋏をくるんで持ち歩く。
能を影で支え、舞台を紡ぎ出す道具を収めた〈針だとう〉。舞台に関わるすべてをこなす能楽師の職人的世界が垣間見える必需品だ。
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▼能楽師のみなさんがお使いになる〈能の必需品〉を紹介するこのシリーズは、シテ方観世流能楽師の谷本健吾さんにご協力いただき更新して参ります。能面や能装束に造詣の深い谷本さんに、実演者ならではの視点で観客がなかなか目にすることの出来ない必需品を解説していただきます。
※次回の必需品は能面を持ち運ぶ〈面鞄〉を予定。
(協力/谷本健吾)(写真と文/編集部)
谷本健吾氏
シテ方観世流。銕仙会所属。昭和50(1975)年生。谷本正鉦の孫。祖父および八世観世銕之亟、九世観世銕之丞に師事。昭和55年「鞍馬天狗・花見」で初舞台。「千歳」、「石橋」、「猩々乱」、「道成寺」を披く。『煌ノ会』、『鉦交会』主宰。国士舘大学21世紀アジア学部非常勤講師、明星大学人文学部非常勤講師。好きな食べ物は甘いものとお寿司。
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【出演情報】
5月27日(水)「夕顔」(銕仙会青山能/銕仙会能楽研修所)。銕仙会HP
6月6日(土)『鉦交会』谷本健吾社中会(銕仙会能楽研修所)※入場無料
8月2日(日)「羽衣・和合之舞」(八王子薪能/八王子子安神社)
12月5日(土)「葵上・梓之出・空之祈」(瑠璃の会/銕仙会能楽研修所)
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