先日、某業界のデザイナーの方々に能装束を見せる機会があったので、生意気ながら僕はまずジャブをとばした。装束に織りだされたポピュラーな紋様を二つほど指して名前と意味を聞いてみた。多少予想はしていたものの、誰一人まともに答えられなかった。
指したのは「輪宝」と「巴雲」。この日本にいて、意匠を扱うデザイナーを名乗っていながら、なぜ、日本人が千年以上に亘って受け継ぎ、当たり前に使ってきた基本的な紋様を知らないのか。地紋に使われる「七宝」や「松皮菱」や「青海波」等、意匠の世界で言えば小学生の足し算レベルの問題にも、やはり誰も答えられなかった。当然そうなるだろうとは思っていたのだが、あえて聞いたり理由は、デザイナーでありながら自国に関しては初歩の初歩も知らないということをわかってほしかったからだった。
伝統とは、古さに価値があるのではなく、その年月工夫改善されてきた蓄積こそが尊い。その一方で、引き継ぐべき立場にある人々が手放せば容易に断絶する。先人達はその断絶の危機を見事に乗り越えてきた。
それにしても、昨今の日本のデザイナーを生み出す機関には本当に残念の感が湧く。デザイナーとは、結局引用のプロであるのだから、その引き出しをいかに確保し、そこで遊べるセンスをいかに磨くのかが勝負だと思う。シルクロードの最果て、意匠の国日本にいて、その豊か過ぎる土壌をちっとも耕さず、皆が上っ面なことばかりしてきたから、この国の街や物はことごとく下品なのっぺらぼうになったのだろう。今後デザイナーは必修科目として、日本の紋様と色彩について完璧な知識を身に着けてほしいと思う。
それだけではない。日本の意匠は、そのほぼ全てが自然の様相を図案化したものだ。自然は、生存競争という億年をかけた最も厳しいデザインの淘汰を経てきた形状に満ちている。人は模倣することによって新しいものを生み出していく生き物だが、誰か人が作った物を模倣し続けていくことによって抽象化され洗練はされるが、自然の持つ生命力からは遠ざかり、やがては枯渇する。
僕は常々、「美は必然に宿る」と考えているが、自然とは完全に必然で構成されている美の宝庫だ。しかし漠然と見ているだけではだめで、人間は対象を認識するためには知覚し、名を知る必要がある。だから、デザイナーは動植物や気象現象の名を熟知し、定期的に自然の中に分け入ってその形状や色彩の美しさに対する感覚を養い、それを生み出し続ける生命力への畏怖を補給し続けるべきである。それは一人デザイナーだけの問題ではなくて、僕ら一人ひとりにもいえることだろう。
昔は、住空間や居住地区には必ず、そういった空間=「小自然」が確保されていた。それを戦後の日本は切り捨てて来たから、せっかくの里山も、野原も、川辺も、庭も、開発され損ねた薄汚い場所になってしまっている。伝統的意匠を日常に取り戻し、もう一度暮らしの中に小自然を確保する、これが僕の考えるこれからの日本にとって必要なことだ。そうしてこの世界を美しく作り直していく、その先導をデザイナーの方々にこそしてほしいから、生意気ながらジャブを飛ばしたのだった。
(写真・文/川口晃平)
川口晃平氏
シテ方観世流能楽師、梅若会所属。昭和五十一年漫画家かわぐちかいじの長男と生まれるも、慶應義塾大学在学中に能に魅せられ、能の道を志す。大学卒業後の平成十三年、五十六世梅若六郎玄祥に入門。その年復曲能「降魔」にて初舞台。平成十九年独立の後、能「翁」の千歳、能「石橋」「猩々乱」「道成寺」を披く。舞台に立つ傍ら、能楽普及のレクチャーを各地で行う。
○
【出演情報】
11月15日(日)「葵上・梓之出」(梅若会別会/梅若能楽学院会館)
※本サイト掲載内容を無断で転載・使用することを禁じます。