髪の毛の存在感はものすごい。例えば、何もない机に一本の髪の毛が落ちていたらどうだろう。たかが一本、されど一本。得も言われぬ影を私たちに感じさせる。能「鉄輪」の作り物にも、一房の髪がかけられている。これは隣の烏帽子とあわせて夫婦の寝室と見立てているそうだが、シテの捨てられた女は、この一房の髪(元夫の新妻をあらわす)をとって打ち据える。その視覚的インパクトたるや……。むんずと掴まれた髪の持ち主の実体を、我々は確かに感じるだろう。
そう、今回の能の必需品はズバリ《髪の毛》。「かずら」もしくは「かつら」とも呼ばれる仮髪〈鬘〉は、主に女性の役の扮装に使用されるもの。演者が身につけるのはもちろん、先述のように小道具の一つとして用いられる場合もある。人間も、若い頃の黒髪も年をとるとともに白いものが混じっていくように、〈鬘〉にも黒、ゴマ、白と役どころによって数種類を使い分ける。一方、男性の役に用いられる〈尉髪(じょうがみ)〉。これは〈鬘〉とは全く違う形状をしているものになる。
〈鬘〉及び〈尉髪〉の素材には「バス(馬尾毛)」と呼ばれる馬のしっぽが用いられるが、〈鬘〉には人毛で作られたもの=「本鬘(ほんかづら)」もある。「バス」は一本一本がかなりしっかりと太く堅い毛で、しなやかではあるけれど真っ直ぐ。人毛の自然な曲線がある「本鬘」よりも、「バス」の方が能装束の直線的な美とマッチするのかもしれない。
1)鬘=「バス」と「本鬘」
一番よく見かけるであろう真っ黒い〈鬘〉のこと。馬のしっぽの毛で作られているものを「バス」と呼び、人毛のものは「本鬘(ほんかづら)」と呼ばれる。
その違いは一目瞭然。「本鬘」のほうが「バス」にくらべて一回り小さいく、重さも「本鬘」のほうが軽い。ただ、人毛で作られて「本鬘」はお手入れも大変で、使う前日~数日前に様子を見ながら油を差さなくてなはらなかったりと気を使うことが多い。どちらを使用するかはズバリ〝好み〟だが、扱いが良いのと、姿を大きく見せるために「バス」を好む役者も少なくないという。ちなみに、谷本さん個人的には「本鬘」の方が形がキマまりやすいということだった。
〈鬘〉頭頂部には白い長方形の布が一本上から縫いつけられ、分け目のようにみせている。能面でも女面には必ず分け目があるように(逆に男面には分け目がない)、〈鬘〉も女性の役で使われる物だということを示している。
〈鬘〉の裏側、頭頂部にくる部分は河童のお皿のように布で丸く座布団のようなものがついていて、そこから二本の紐がヒョロリと出ているのは〈鬘〉の内側で頭に直接結ぶ紐。これでおおよそ固定した上に、〈鬘〉の上からもさらに「下掛け」と呼ばれる別の紐を掛けズレを防止している。
能装束の着付けは本来3人で行い、〈鬘〉の装着もこの装束付けの3人が、それぞれ①結う人、②おさえる人、③補佐として働く。つけるのにだいたい5分前後。早い先生だと3分ほどでつけられる人もいるのだとか。
2)姥鬘(うばかづら)
鬘に白髪の混ざったもので、主にツレで出てくるときに使用する。「藤戸」や「安達ヶ原」(小書きによる)の前シテなどにも使われる。構造は黒の〈鬘〉と同じ。
3)山姥鬘(やまんばかづら)
「山姥」後シテ専用、といわれるが、「卒都婆小町」「桧垣」などにも使われる、やや白の多いごま塩色の鬘。構造的には通常の〈鬘〉と同じだが、写真の通り固定するための紐が白に変わる。
4)老女鬘(ろうじょかづら)
総白髪の〈鬘〉で、その名の通り老女ものに使用されるもの。頭頂部の座布団と紐も白色。今回お持ちいただいたものは少し黄みがかっていたが、これは長年使い込まれたものだからで、谷本さんがご自身でお持ちの〈老女鬘〉はもっと真っ白だという。
〈鬘〉の際に確認した裏側は、老女鬘だと細かい部分まで見てとれる。毛を何本か集めたものを丁寧に編み、ひとつひとつ交差するように留めてある。表を返すと、その数本の束を縦につないで埋め込んであることが解る。途方もない作業だ。
この〈鬘〉類、以前は東京の専門店に制作や修繕を依頼していたと言うが、そのお店が廃業。現在は京都の専門店に頼んでいるということだ。
ちなみに、今回はお持ちいただかなかったが男性の役に用いる「喝食鬘」は「本鬘」の頭頂部分け目をあらわす白い布をとったもので、通常の〈鬘〉類よりも少し短く作られている。子方が〈鬘〉を用いる場合は、この「喝食鬘」を使うのだそうだ。
「鬘を初めて着けたときは加減がよくわからなくて、下掛けをギュウギュウに縛って頭が痛くなってきたことがあります。書生中や書生を出たばかりだとバスしかつけられませんので、初めて本鬘をつけた時には嬉しかったですね。それと、バスに比べて軽いのには驚きました。」(谷本さん談)
「女のいのち」とも形容される髪の毛。〈鬘〉をつけ、女性のような見目になったとき改めて女性を演じるような心持ちになるのかと思いきや、能の場合は技術的に女性を演じる事はあっても、女性の〝心情〟になりきるのとは違うという。とはいえ、硬質な能面と対照的に柔らかく変容する〈鬘〉は能面の美しさを際だたせ、能に登場する女性の優雅な姿をあらわす大切なアイテムのひとつだろう。
監修/シテ方観世流 谷本健吾
協力/銕仙会
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▼能楽師のみなさんがお使いになる〈能の必需品〉を紹介するこのシリーズは、能面や能装束に造詣の深いシテ方観世流能楽師の谷本健吾さんにご協力いただき、実演者ならではの視点で観客がなかなか目にすることのできない必需品を解説していただきます。
※次回の必需品は「鬘類2~尉髪と鬘をつける道具」を予定しています。
谷本健吾氏
シテ方観世流。銕仙会所属。昭和50(1975)年生。谷本正鉦の孫。祖父および八世観世銕之亟、九世観世銕之丞に師事。昭和55年「鞍馬天狗・花見」で初舞台。「千歳」、「石橋」、「乱」、「道成寺」を披く。『煌ノ会』、『瑠璃の会』、『三人の会』、『鉦交会』主宰。国士舘大学21世紀アジア学部非常勤講師、明星大学人文学部非常勤講師。好きな食べ物は甘いものとお寿司。
【出演情報】
2016年
9月14日(水)
「能楽妄想ナイト」
(荻窪・6次元カフェ)
9月28日(水)
「松虫」
(青山能/銕仙会能楽研修所)
12月3日(土)
「融・舞返」
(瑠璃の会/銕仙会能楽研修所)
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